ローマ教会とグレゴリオ聖歌の成立(その3)


 全ヨーロッパへの宣教の広がり

 イベリア半島は、数世紀にわたってイスラムの支配が続きますが、そこでキリスト教を守る人々は、「アラブの中のキリスト教徒」と言う意味で「モサラベ」と呼ばれます。
 5・6世紀は、アイルランド出身の修道士たちの活動が目立ちます。(聖パトリックがアイルランドに戻って宣教を開始したのは、431年のことと言われています。)

 グレゴリウス1世とグレゴリオ聖歌

 典礼や聖歌が各地各様に発展していくと、ローマ教皇公認の典礼・聖歌を定め、全体の統一を図ろうとする動きが出てきます。
 その統一運動の率先者は、伝統的にグレゴリウス1世(590-604)とされるのですが、確かなことは何も確認されてはいません。実際の資料で、典礼書や聖歌集の編集者としてグレゴリウスの名が挙げられるようになるのは、8世紀になってからのことです。
 教皇ヨハネス8世(872-882)の指示で助祭ヨハネスが記したと言われる「偉大なるグレゴリウスの生涯」という著作に、グレゴリウスは、スコラ・カントールムの創始者で、聖歌集を編纂したと明記されていますが、それを文字通り信じるわけにはいきません。

 シャルルマーニュカール大帝

 この頃に、ローマ典礼と聖歌はヨーロッパ全体に定着していきます。フランク王国の二人の国王、ピピン3世とシャルルマーニュが推進するのですが、ピピン3世は、ガリア聖歌にかえてローマ聖歌を普及させるための聖歌隊学校を設立します。シャルルマーニュは「ローマの教会で行われているやり方で歌う」よう指示を出します。
 800年のクリスマス、教皇レオ3世はシャルルマーニュ西ローマ帝国皇帝の称号を与えます。

 イングランドアルクイヌス

 晩年トゥールのサン・マルタン修道院の院長となります。教養学の中心地として知られるようになるのですが、基礎は自由学芸と典礼聖歌を学ぶことでありました。
 典礼聖歌の重要な拠点として、スイス東北部に位置するライヒェナウ大修道院ザンクト・ガレン修道院の2つのベネディクト派修道院があります。