ローマ教会とグレゴリオ聖歌の成立(その5)


 ラテン語による聖歌の伝統

 シャルルマーニュカール大帝)が、ローマ教皇公認の聖歌を歌うことを奨励し、時に強制した結果、それ以前の伝統的ラテン系聖歌は姿を消していきます。
 グレゴリオ聖歌以前のローマ起源の聖歌である古ローマ聖歌であるとか、ガリア聖歌(フランク王国)、ケルト聖歌(アイルランドスコットランド)、南イタリアのベネヴェント聖歌など。

 イベリア半島のモサラベ聖歌は、伝統が根強く、すぐにはローマ典礼を受け入れませんでした。最終的には、1085年の教皇グレゴリウス7世による抑圧の結果、正式に転向します。トレド周辺の修道院などは、モサラベ聖歌を歌い続ける伝統も残っています。
 例外的に以前の伝統を公認された形で守り続けたものが、ミラノ典礼とその聖歌です。

 ローマ典礼はローマ起源であり、グレゴリオ聖歌はグレゴリウス1世によって編纂され集大成されたものであるというのは誤解です。
 ローマ典礼確立に重要な役割を演じたのは、「ローマのやり方で聖歌を歌うこと」を奨励したカール大帝ザンクト・ガレン修道院などベネディクト派の修道士たちでした。
 グレゴリオ聖歌の正式名称「ローマ聖歌」は、ローマ起源ではなく「ローマ教皇公認の聖歌」という意味です。

 聖歌の地方差

 基礎となる聖歌の旋律や歌詞が、時代や場所によって微妙に異なっています。研究はあまり進んでいないのですが、そうした問題があることを心得ておく必要があるでしょう。

 ローマ典礼に基づきながら、その地方的特徴が顕著で、教会音楽史に目立った影響を及ぼした例として、セーラム典礼とその聖歌があります。イングランドのソールズベリー大聖堂において用いられていました。セーラム典礼が成立したのは13世紀です。

 「ミサ・カプト」のケース

 セーラム聖歌が重要なのは、15・16世紀にイングランドの教会のためにポリフォニー音楽が盛んに作曲されるようになったとき、作曲の基礎としてこの聖歌が用いられたからで、影響は大陸にまで及んでいます。

 有名な例として「カプト」と題される3つのミサ曲

 定旋律をセーラム聖歌の交唱(ペテロに来り:Veni ad Petrum)の終わり近い「caput」という歌詞部分の華やかなメリスマから取ったもので、最初は、イングランドの無名の作曲家が作曲しました。それはキリエがないものでしたので、ギヨーム・デュファイがキリエを書き加えます。そのためデュファイの作と誤解されることになりました。それを真似てヨハンネス・オケゲムヤコブ・オブレヒトが、それぞれ「ミサ・カプト」を作曲することになりました。