◆数学は「発見」?それとも「発明」?(その3)◆


 ◆数学は「発見」?それとも「発明」?(その3)◆

 Where do mathematical objects live?
 http://www.sciencenews.org/view/generic/id/31392/title/Still_debating_with_Plato

の続き、終わりまでです。


「課題は、数学的命題が、好みや一時の気まぐれに影響されることなく、決定的に真か偽でありうるのは何故なのか説明することだと、彼は認めている。「2 + 2 = 4」のような単純な命題では、これは、数学と物理学との関係のためだと彼は言う。例えば、そのような命題は、コインやボタンの振る舞い方を叙述する。さらに物理学的世界から切り離されたより抽象的な命題のためには、彼は、私たちの脳の構造や論理への思考傾向を指摘する。

「しかし、Mazurは、その説明では満足できないと思っている。「私たちは、あまり意識されない存在だが「私たちの(our)」という言葉に目を凝らさ(注目し)なければならない」と彼は書いている。「「私たち(we)」は、個別に存在し恐らく一人一人異なりしばしば欠陥のある能力しか与えられていない私たちの一人一人であり、そうして、私たちみんなであるという意味でなければならないのか? 」この場合、個々人が皆違うように、数学自体が様々に異なっていなければならない。

「一方、もし「私たち」が、私たち個々人の才能の一種の抽象概念 - 実際に私たちの誰でもなく、私たちを結び付けている共通のもの - であるのなら、私たちは、抽象的なイデアの王国というプラトンの概念と隣合わせのところにいると彼は言う。

「しかし、発明という概念も、また、彼の見方では、数学をする経験の中で真実と捉えられる。「ときどき」と彼は言う。「私は、数学をしている間に、私の思考過程や他の人々の思考過程を分析をしているように思えるときがある。」こうした経験のあらゆる側面が、こうした議論には含まれなければならないと、彼は議論する。

「一つのことだけは、議論の余地はない - と私は信じる」と彼は書いている。「もしあなたが十分長い間数学と取り組んでいるのなら、いつかその問いとばったり出会うだろう。そして、その問いは、なかなか(頭から)立ち去ろうとしないだろう。もし、私たちが、数学を考えることは非常に素晴らしいことだと熱烈に感じた経験を大切にしたいのなら、私たちは、その問いに注意を払った方がよいだろう。」


◆イングランドの翻訳者たち◆


 ◆イングランドの翻訳者たち◆

 イングランドは、12世紀に優れた翻訳者を二人以上生み出しており、アイルランドは少なくとも一人を生み出したように思えます。これらの中で最もよく知られているのは、バースのアデラード(Adelard of Bath)でしょう。トレド、トゥール(Tours)、ラオン(Laon)、そして東方でも学び、ギリシア小アジア、エジプトを経由して、恐らくアラビアまで旅し、多くの数学的著作を持ち帰ったイングランドの学者です。

彼は、ギリシア語の知識があると信じられ、ユークリッド(エウクレイデス)をラテン語に訳した最初の人たちの一人ですが、この翻訳はアラビア語からなされたように思えます。彼かあるいはカンパヌス(Campanus)のいずれかが、星の多角形の角の総和を求めたように思えます。その図形は、恐らく占星術での使用のためだと思いますが、当時かなり関心が持たれていました。また、彼は、恐らく、アル・フワーリズミーの天文表を翻訳したでしょう。そして、この著者の算術についての注釈も書き、「算盤の規則(Regulae abaci)」と題する著作を書いたと言われています。

しかし、アデラードは、ユークリッドの名をイングランドにもたらした最初の人物では決してありませんでした。というのは、すでに、私たちが見てきたように(p.187)、10世紀には、イギリスの学者たちには、すでに知られていたようだからです。

 アデラードがトレドに滞在した数年後、数学に関心のある別の二人のイングランドの学者が、自らの研究を究めるためにスペインへ行っています。

このうち最初の者がチェスターのロバート(Robert of Chester)(1140年頃)です。彼は、アル・フワーリズミーの代数をラテン語に訳し、いくつかの天文表を用意しました。彼は、北スペインのパンペルナ(Pampelune)の助祭長で、また、イタリアとギリシアに旅したようにも思えます。彼は、コーランクルアーン)をラテン語に訳した最初の人物でした。(1143年)

 そのイングランドの学者の二人目は、ダニエル・モーリー(Daniel Morley)で、1180年、オックスフォードで学んでいました。彼はパリへ行き、そこからトレドへ行って、アラビアの著述家たちを自由に引用しながら、天文学と数学とについて著述しました。こうした人たちが、この時代、数学を求めて強制的に外国へと派遣されたことは、ロンドンの学校で書かれた著作の記録から明らかです。スペインへ行くべきであるというのは、全く自然なことでした。単に言語の理由からだけではなく、アルフォンソ8世(1158-1214年)とヘンリー2世の娘、レノーラ(Lenora)との婚姻で、カスティリアイングランドとの間には、親密な関係があったからです。


◆フランスのマニエリスト(その2)◆


 ◆フランスのマニエリスト(その2)◆

 フランスのマニエリストの作曲家たちは、マショーやその直接の弟子たちと共に、すべて豪華なシャンティ写本(Chantilly Codex)に描かれています。その写本は、実際のところ、アラゴン王によって注文されたまさにその曲集あるいはその豪華版であるかも知れません。なぜなら、それは、彼の勅令にきちんと答えているからです。その何人かは、- フランスの影響を受けたイタリア人と共に - モデナ写本(Modena, Bibl. Est. M.5.24)(olim lat.568)やその他の資料の中にも現れます。

彼らの芸術は、自意識の激しい貴族的な玄人好みの音楽でした。彼らの一人、グィードは、「自然に反して」書かなければならないことに不平さえ漏らしています。「フィリップ[ドゥ・ヴィトリ]」の「boin exemplaire(よき模範?)」は、今では無駄になってしまいました。グィードは過激主義者の一人ではありませんでした。

真の過激主義者の中で最も優れているのは、アラゴンの宮廷にいたフランス人ハープ奏者、ヤコブ・ド・サンレッシュ(Jacob de Senleches)とも、ヤコミ・デ・セントルフ(Jacomi de Sentluch)とも、また(モデナ写本
(Modena Codex)では)ヤコピヌス・セレセス(Jacopinus Selesses)とも様々に知られている人でした。彼の苦心の末到達した精巧さでさえ、「マギルテル・ザカリアス(Magister Zacharias)」という人物によって越えられてしまいます。

モデナ写本の彼のラテン語のバッラード「Sumite karissimi」は、アペルによって「音楽の全歴史におけるリズムの複雑さの極み」と描写されているほどです。記譜だけでなく、記譜のレイアウト上の工夫は、後の時代に加えられたものではありますが、シャンティ写本(Chantilly Codex)の最初のボド・コルディエ(Baude Cordier)による二つのロンドに示されています。ハート形に記譜された有名な「Belle, bonne sage」と円形に記譜された「Tout par compas」です。

後者の一隅に、その作曲者は、ランス(Rheims)生まれで彼の音楽はローマにまで知れ渡ったという内容の韻文が書かれています。

 生まれたランスからローマまで
 彼の音楽は姿を見せさまよい歩く。
 (De Reins dont est et jusqu'a Romme
 sa musique appert et a rode.)

しかし、「Belle, bonne, sage」の実際の音楽は、いくつかの彼の作品(例えば「Amans ames」)ほどマニエリズムには決して堕していません。彼は、恐らく、15世紀初期に活動していたことでしょうそして、その頃には、マニエリズムに対する反動が始まっていました。



 いつの間にか6月も終わりです。ということは、2008年も半分過ぎたことになります。早いものですね。

 今年は、7月1日が雑節の半夏生です。「半夏のはげあがり」などという言葉を思い出しました。「降り続いた雨も、この日には晴れる」という意味だというものもあれば、「半夏(夏至から十一日目に当る日)の日が晴れると後は晴天が続く。」という意味の地方もあるようです。

 今日は、湿舌が入り込んでいるのかと思わせるほどの蒸し暑さでした。半夏生、さてさて晴れますでしょうか?


◆数学は「発見」?それとも「発明」?(その2)◆


 ◆数学は「発見」?それとも「発明」?(その2)◆

 Where do mathematical objects live?
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の続きです。


プラトンは、発見であると信じる者たちの旗手である。プラトンの概念は、数学は宇宙のあらゆる構造物の下に横たわる揺らぐことのない基盤である。数学の内なる論理に従うことで、数学者は人間の観察からは独立した、一時的な性質の物理学的現実(現象)にとらわれない永遠の真実を発見する。「数学者が仕事をする抽象的王国は、数学者たちにとっては、その詳細な知識に長く慣れ親しんでいるがために、たまたまその上に座る椅子より具体的なものである」と、自らプラトン主義者を自認するスウェーデンの Chalmers技術大学の Ulf Perssonは語る。

プラトンの考え方は、数学を考えているとき経験する状況によく合致すると、自らをプラトン主義者であるとまでは言わないが、ハーバード大学の数学者 Barry Mazurは語る。定理と取り組んでいるときの感覚が、「数学の概念の狩猟採集者」であるような感覚であると、彼は言う。

「しかし、その狩猟場はどこにあるのか?もし数学的イデアがそこにあって、発見されるのを待っているというのなら、人類がそれまで心に描いたことが一度もなくても、とにかく純粋に抽象的概念が存在しなければならない。このため、Mazurは、プラトンの観点を「成熟した有神論の立場」であると考えている。それは、伝統的な意味でのどんな神をも要求するのではなく、「純粋なイデアの、純粋な存在の構造体」を要求すると彼は言う。そうした立場を擁護することは、「理性の貯蔵庫を放棄し預言者たちの資質に依存する」ことを要求する。

「事実、ロンドンのキングズ・カレッジの数学者Brian Daviesは、プラトン主義は、「現代の科学より神秘的宗教とに多くの共通点を持っている」と書いている。また、現代科学は、プラトン主義的な観点は単に単純な間違いに過ぎないことを示す証拠を提供していると彼は信じている。その論文のタイトルを「プラトン主義に死を」と彼は付けている。

「もし、数学がこの純粋なイデアの王国を認知することであるのなら、数学をすることは、私たちの脳になんらかの仕方で物理的世界を超えたところに到達することを要求する。Daviesは、脳の画像化(イメージング)(brain-imaging)研究は、この信仰を次第に本当らしいものではなくしていると、彼は指摘している。私たちの脳は、視覚の様々な多くの側面を記憶や先入観と統合し - 錯覚が明らかにするように常に正しく創造するとは限らないが - 単一のイメージを創造する。彼は、また、脳のイメージング研究は、私たちの数の感覚の生物的基盤を示し始めているとも言う。

「しかし、ニューメキシコ大学の Reuben Hershは、こうした研究が数学を理解する直感的能力のプラトン的概念を論理的に打破するとは信じていない。にもかかわらず、彼はプラトンの観点を拒絶する。そうではなく、数学は人間の文化の産物であり、根本的に音楽や法律やお金のような他の人間が創った創造物と異ならないと主張して。


◆イタリアとフランスの翻訳者たち◆


 ◆イタリアとフランスの翻訳者たち◆

 12世紀にイタリアとフランスは、数人の優れた学者を生み出しました。彼らのアラビア語の知識と数学への好みは、イスラムギリシア文明の様々な古典をラテン世界に知らしめることになりました。

 これらの翻訳者の中で最初の人物は、チボリのプラト(Plato of Tivoli)あるいは、プラト・ティブルティヌス(Plato Tiburtinus)と呼ばれる人でした。彼は、1120年頃の人で、アルバテニウス(Albategnius)(アル・バッタ
ーニ(al-Battani))の天文学、テオドシウスの「球面幾何学(Spherics)」、アブラハム・バール・キイア(Abraham bar Chiia)(1120年頃)の Liber Embadorum その他占星術に関する様々な著作を翻訳しました。

 この頃、シチリア島も、ギリシアやアラビアの著作の翻訳が活発でした。こうした学者たちの注意を引いた論文の中に、プトレマイオスの「アルマゲスト(Almagest)」があります。そのアルマゲストは、1160年頃、以前にシチリアの学者によってコンスタンチノープルからパレルモにもたらされたギリシア語の写本から、名前不詳の翻訳家によってラテン語に翻訳されたものです。

 何年か後、ゲラルド・クレモネンセ(Gherardo Cremonense)、すなわち、クレモナのゲラルド(Gherardo of Cremona)(1114-1187年)が、イタリアで、それからスペインで学び、トレドではアラビア語を学びました。彼だけでなく他の多くの中世の、またずっと後の科学者たちにとって、占星術が、医学と数学とを加えた総合学(ネクサス)となったように、彼の関心は、その3つの分野すべてにありました。

彼は、様々な数学及び天文学の著作をアラビア語から訳し、その中に、ユークリッド(エウクレイデス)の「幾何学原論」「ダータ(Data)」、テオドシウスの「球面幾何学(Spherics)」、メネラオスの著作、プトレマイオスの「アルマゲスト」が含まれています。その「書物への愛のため」彼はトレドに旅をしています。


◆フランスのマニエリスト◆


 ◆フランスのマニエリスト◆

 イギリスの作曲家たちは教会音楽に集中していたからでしょう、洗練され複雑が増していっても、イギリス音楽は、マショー後のフランス人によって到達された極端に複雑なリズムには決して近づきませんでした。宗教音楽は、今や、どの地域でも世俗のものよりシンプルになる傾向がありました。

マショーの影響下現れた作曲家たち - F.アンドリュ(F.Andrieu)とマギステル・フランシスクス(Magister Franciscus)(同一人物であったかも知れない。)、ヴェラン(Vaillant)、キュヴリェ(Cuvelier)、スセ(Susay) - は、様式において最も近く、同じ形式、バッラーダ、ロンド、そしてそれほどではないがヴィルレを培ってき ました。

しかし、彼らは、特に最も高いパートでは、流れるようなカンティレーナを好みました。事実、旋律的な上声部は同じく宗教音楽にも侵入し始めます。アプト写本(Apt Codex)には、10の三声の讃(美)歌があり、そのうち9つで最上部に単純で少し装飾された典礼の旋律があります。

しかし、マショーの死の前に、すでに非常に異なる傾向が始まっていました。バッラードなどと同じ形式が、より短い音価に分割、再分割され、アペル(Apel)が「マニエリズムに堕した」と適切に説明した複雑な記譜の革新を同様に必要としたリズムやクロス・リズム(cross-rhythm)の精巧な技法によって複雑化していきました。

「音楽の記譜法が音楽の召使いとしてのその自然の限界を越え、むしろその主人、それ自体が目的、知的詭弁のための活動の場となっている。」この「マニエリズムに堕した」様式は、その多くが、フォァの伯爵(Count of Foix)のガストン・フェビュ(Gaston Phebus)(1392年没)、ベリー公爵(Duke of Berry)の有名な芸術鑑定家ジョン(1416年没)、そしてアラゴンのヨハン1世(John I)のような皇子に仕えたり、作品を捧げたりした作曲家によって実践されました。もう一人のパトロンは、教皇クレメンスVII世その人でした。