数学史 092 ◆ラビ、ベン・エズラ◆


 ◆ラビ、ベン・エズラ

 この時期の第二の偉大なヘブライの学者は、アブラハム・ベン・エズラ(Abraham ben Ezra)でした。彼は、数の理論、暦学、魔方陣天文学、そしてアストロラーベについて著述しました。カバラに非常に関心があって、当時の最も学識のあるユダヤ人として正当に評価されています。彼は広く旅し、少なくとも東はエジプトまで、北はロンドンまで(1158年)行っています。天文学、暦学とその近隣のテーマに関する貢献に加えて、彼は数について3,4の著作を書いています。

 (1) セフェル・ハ・エチャド(Sefer ha-Echad);
 (2) セフェル・ハ・ミスパル(Sefer ha-Mispar)、主に算術について;
 (3) Liber augmenti et diminutionis vocatus numeratio divinationis, これはラテン語の翻訳だけで知られており、恐らく彼によるものではないだろう。
 (4) タ・フブラ(Ta 'hbula)、ヨセフス問題(Josephus Problem)を含んでいて、分冊の可能性があり、恐らく彼によるものだろう。

これらの中で、セフェル・ハ・ミスパル(Sefer ha-Mispar)だけが、唯一重要です。それは、ヒンドゥーの算術に基づいているのですが、数詞としてヘブライ文字を用いており、計算法の中で0を使っています。

 ユダヤ人によっても、キリスト教徒によっても、同様に高く評価されていましたが、彼の運命は全くの幸せであったとは言えませんでした。彼は逆境との戦いの中で、次のような言葉で嘆きを漏らしています。

 Were candles my trade it would always be noon;
 Were I dealing in shrouds Death would leave us alone.
 私が蝋燭を商っているのなら、常に正午であるだろう
 遺体を包む布を商っているのなら、死に神は私たちを独りにしておくだろう

音楽史 092 ◆イタリアのフランス人ワロン人音楽家◆


 ◆イタリアのフランス人ワロン人音楽家

 これまで、ヨーロッパのポリフォニーは、イギリス人がそうであったように、ほとんどもっぱらフランス語を話す音楽家たちと近く絶えず接触のあった音楽家たちの手で発展してきました。私たちがちょうど見てきたように、トレチェント(14世紀)のイタリアの一時の個人的な音楽でさえ、次第にフランスの影響によって変容させられてきました。しかし、パドヴァにチコニアが現れたり教皇庁礼拝堂に彼の同国人たちが職を得たりしたことは、新たな展開、外国人によるイタリアの音楽家の地位の占有をもたらしました。

これは、特に、ローマ教会の分裂の終わりに著しくなります。コンスタンツ公会議(The Council of Constance)そのものが、様々な国の音楽家たちを集めました。皇帝ジギスムント(The Emperor Sigismund)は、オズワルド・フォン・ヴォルケンシュタイン(Oswald von Wolkenstein)を伴って来ましたし、イギリスの派遣団が伴った歌い手たちは、コンスタンツだけでなく旅の途中のケルンでも特別に称賛されました。

 1417年に、やっとマルティヌス5世が選出されると、彼は亀のようなゆっくりした旅に出かけ、行く先々で礼拝堂聖歌隊員を補充しています。1419年に、マントヴァで補充されたレグラン(Legrant)による、一つのグロリア、二つのクレド、三つのフランス語のヴィルレ(virelais)、ほとんどが一音対一音の様式で大胆な半音階主義の曲ですが、私たちは持っています。もう一人の優れた作曲家 - シャンソンだけですが - ピエール・フォンテーヌ(Pierre Fontaine)(泉のペトルス(Petr. de fonte))は、イェーハン・ドーレ(Jehan Dore)と同じ時、1420年3月にフィレンツェで補充されています。

ニコラウス・グレノン(Nicolaus Grenon)は、1385年の早きにブルグンドの宮廷にいて、それから、パリ、ラオン(Laon)、カンブレ(Cambrai)、ベリー公爵(The Duke of Berry)の礼拝堂にポストを得、その後再びブルグンド(ブルゴーニュ)の宮廷とカンブレに戻っています。1425年6月に、彼は少年たちのグループを引き連れてローマに現れます。彼が、1427年に北に帰ると、彼の親しい友人であったカンブレ出身のワロン人、その世紀で最も偉大な作曲家になるギヨーム・ド・デュファイ(Guillaume de Dufay)が後を継ぎます。

デュファイは、リミニ(Rimini)とペサロ(Pesaro)のマラテスタ家(The Malatestas)の礼拝堂に、1420-6年の間、すでにイタリアにいました。1433年、彼もまた放浪の旅へと去っていく前に、彼は、新しい教皇、エウゲニウス4世(Eugenius IV)を彼の最もすばらしいモテトゥス「Ecclesiae militantis」で褒め讃え、その礼拝堂の三人の新入聖歌隊員を歓迎しています。

デュファイは、1434年、サヴォイのルイ(Louis of Savoy)とイェルサレムキプロスの最後のルジニャン王(the last Lusignan King)の娘との結婚のためにトリノ(Turin)へ赴き、混乱によって彼がローマから追い立てられると、教皇に従ってフィレンツェボローニャへ行きますが、1437年には永久に教皇の礼拝堂を離れ 1444年頃までトリノにいます。そして、生涯の最後の30年間を - 彼は 1474年に没しますが - ブルグンド(ブルゴーニュ)公の庇護のもと、カンブレとモンス(Mons)で過ごします。


 「今年は暑い夏が続くのでは?」と思われた頃もあるのですが、このところの涼しさとその後の局地的な豪雨には、驚かされますね。

 皆さんのところは、如何ですか。

 豪雨被害を受けられた方々にはお見舞い申し上げます。

 私のところも、このところずっと雨が続いていますが、それほどの豪雨にはなっていないようです。ただ、この雨で、庭や畑のあちこちで草が随分大きくなりました。晴れ間を見つけては草取りをしなければならないと思っているところです。

 それでは。


◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問◆


 ◆遺伝子組み換え食品に関する20の質問◆

 少し前から、遺伝子組み換えについて興味を抱いたのですが、どうもよく分からないところもありまして、今回から、WHO(世界保健機関)のサイトに書かれている「20 QUESTIONS ON GENETICALLY MODIFIED (GM) FOODS」を訳してみることにしました。何かの参考になれば幸いです。

 20 QUESTIONS ON GENETICALLY MODIFIED (GM) FOODS
 http://www.who.int/foodsafety/publications/biotech/20questions/en/


 遺伝子組み換え食品に関する20の質問

 Q1 遺伝子組み換え(GM)作物や遺伝子組み換え食品とは何?

 これらの質問と答えは、遺伝子組み換え食品の性質と安全性に関する WHO に加盟する多くの国の疑問と不安に応えて WHO が用意したものです。

 遺伝子組み換え作物(GMOs)とは、遺伝物質(DNA)が自然には起こらない仕方で変えられた作物と定義することができます。その技術は、しばしば、「現代バイオテクノロジー(modern biotechnology)」「遺伝子テクノロジー(gene technology)」と呼ばれますが、また時には「遺伝子組み換え技術(recombinant DNA technology)」「遺伝子工学(genetic engineering)」と呼ばれることもあります。その技術を使えば、一つの生物から別の生物に、また、関係のない種の間で、個々の遺伝子を選択して移す(組み換える)ことができます。

 そうした方法は、遺伝子組み換え植物を作り出すのに使われます。- その後、その植物は、遺伝子組み換え農作物を栽培するのに使われます。


◆スペイン(11世紀)◆


 ◆スペイン◆

 AD1000年頃、多くのムーア人学者がスペインに現れ、算術や天文学、また代数の文献を残しています。

 コルドバ生まれのイブン・アルサッファール(Ibn al-Saffar)は、天文表と天文器具について書いています。少し後(1050年頃)、イブン・アルザルカラ(ツァルカラ?)(Ibn al-Zarqala)は、恐らくコルドバの生まれだと思いますが、天文学占星術について著述し、天文表を残しています。

 その世紀の後半、デニア(Denia)出身のスペインの医学者アブル・サルト(Abul-Salt)は、幾何学天文学について書き、ジャビール・イブン・アフラ(Jabir ibn Aflah)(1140年と 1150年の間に没)、一般にはヘベル(Geber)として知られていますが、セヴィリアで活躍し、天文学や球面三角法、メネラオスの定理について書いています。

 しかし、11世紀の終わり、スペインで最も学識ある学者は、イスラム教徒ではありませんでした。ユダヤ民族、彼らは都合のよいことにスペインの東洋文明との関係で述べられることになるのですが、全般的に、キリスト教の支配でよりもサラセンの支配の下での方が、よい扱いを受けていました。この時代以前に、イタリアでいくらか活躍したことはありましたが、ムーア人からの励まし受け、ユダヤ人たちはスペインの数学の発展に少なからぬ貢献をし、キリスト教徒たちは、数学に関するアラビア語の著作の最初の知識を彼らに負うています。

この世紀、ユダヤの優れた学者の第一は、アブラハム・バル・キイア(Abraham bar Chiia)(アブラハム・ユダエウス(Abraham Judaeus))、一般に、サヴァソルダ(Savasorda)として知られるバルセロナ生まれの人です。(1070年頃から 1136年頃)

彼は、天文学について著述しましたが、主として、算術、幾何学及び数学的地理学などを含む百科事典のために知られています。断片しか現存しませんが、彼はまた、Liber Embadorumという書名の著作も書いています。この著作は、チボリのプラト(Plato of Tivoli)によってヘブライ語からラテン語に翻訳されました。


 ◆世紀の変わり目のイタリア◆


 ◆世紀の変わり目のイタリア◆

 フランス同様の複雑な曲とシンプルな曲との対比が、14世紀から15世紀への変わり目頃のイタリア人、ランディーニより若い世代で、一層フランス化した同時代人の作品を特徴付けています。

これらのうちで最も重要なのは、マッテオ・ダ・ペルージャ(Matteo da Perugia)でした。マッテオは、歌手で、当時、1402年から 1416年まで、ミラノ大聖堂の最初のマエストロ・ディ・カッペラ(礼拝堂指揮者)(maestro de cappella)であったことが知られています。

彼の作品は、すべてモデナ写本にあり、5つのグロリア、一つのアニュス(と恐らくいくつかの作曲者不詳のミサの一部)、そしておよそ24の世俗曲、ロンド、ヴィルレ、フランス語の歌詞で完全にフランス様式のバッラードからなっています。ボド・コルディエ(Baude Cordier)のもの同様、それらは、時には、記譜が期待させるほど音において複雑でない場合もあります。しかし、グロリアの一つは、確かに、イタリア・マニエリズムの頂点に位置するでしょう。

 シャンティリ写本(Chantilly Codex)の終わりにあるモテトゥス、四声の曲が9曲、三声の曲が4曲ありますが、それらはリズム的には歌ほど複雑ではないことに注目すべきです。それらは、三つを除いてすべてラテン語のテキストですが、すべて宗教的なものでは全くありません。世俗のモテトゥスは、長い間それほど重要であったのですが、今や絶滅の危機に瀕した形式になっていました。

他方、宗教的モテトゥスは、シャンティリ写本には決して現れませんが、実際にはそれが知られていなかったイタリアでは、その写し、モデナ写本の中で、新しい生命が与えられていました。ここでは、その作曲家はマニエリストと見られていて、彼のヴィルレに、彼の友人であったかあるいは師であったに違いないフィリップス・デ・カセルタ(Philippus de Caserta)による三つのバッラーダの歌詞と音楽とが織り込まれています。

この新参者は、北から、リエージュから来たワロン人、ヨハネス・チコニア (Johannes Ciconia)(1411年没)でした。彼は、少なくとも生涯の最後の9年間をパドヴァで過ごしています。

 彼は、ここ時期イタリアにやって来た君主司教職(prince-bishopric)の唯一人の音楽家であったわけでもなく、アヴィニョン教皇たちだけが外国人を雇ったわけでもありませんでした。ローマのボニフェティウス9世は、少なくとも3人のリエージュ出身の歌い手を礼拝堂に雇っていました。彼らは、イタリア音楽を変貌させてしまうことになる著しい(外国人の)侵入の先駆者たちでした。前の半世紀の間に、そうした変化の条件がすでに整えられていました。彼らの中で著しく抜きんでて重要なのがチコニアです。



 暑中お見舞い申し上げます。 - 盛夏

 今年は、例年より梅雨明けが早く、その後、雨の少ない状態が続いている四国地方ですが、皆さんのところは如何ですか。

 6月は平年並みに雨が降ったのですが、7月に入ってからは、本当に雨の少ないからから天気の状態で、暑さばかりが感じられます。一昨日は激しい雷雨で、こちらは一息ついたところですが、降れば土砂降りで水難に遭った地域も有ったようですね。

 ともかく、7月というのに全国的に猛暑日が目立っているようです。8月はどうなるか分かりませんが、いずれにしろ、熱中症などお身体には十分お気を付けください!